秀吉を継ぐ者たち 〜合宿のいちばん長い日〜

 これは2002年5月に滋賀県で行われた合同合宿でプレイされた「戦国のいちばん長い日」のシナリオ1「慶長五年戦役」のイメージリプレイです。
 特別に記録を取ってプレイしていたわけではありませんので、筆者の誇張、脚色、あるいは誤解なども含まれていることをご了承ください。

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第一章 戦雲立つ

 慶長5年7月、秀吉の死後燻り続けていた戦火は本領会津に籠もって合戦準備を進める上杉景勝に対する徳川家康の討伐宣言によって一気に燃え上がろうとしていた。家康は豊臣恩顧の諸将に号令を発し下野国小山に大軍勢を集結させた。
 だが、小山に滞陣する徳川家康の圧力にも関わらず佐竹義宣は挙兵を決意、この報を受けた石田、直江らの意気はあがり、家康は渋面を作った。ここで家康は奇策に出る。すなわち、関東の兵を、その全力を西軍に叩き付ける。後背地である関東の仕置きは全てが決してから行えばよい、と。
第二章 山城奮迅

 開戦劈頭、最上領との国境に兵力を集結させていた上杉軍は一気呵成に最上義光以下の奥羽勢に襲いかかった。上杉景勝、本庄繁長隊による正面からの突進と迂回した直江兼継隊の圧迫に、上杉攻めの中止に揺れる奥羽諸将の戦線離脱が加わり山形城を軸にした防衛陣は破砕された。直江隊の追撃によって最上重臣志村高治が討死、最上義光は上杉と単独で和睦していた伊達領に退散した。
 一方、北陸でも前田利長と丹羽長重を筆頭とする西方諸将との対決が激化していた。当初こそ前田勢の攻勢に押されていた西軍であったが、田辺城攻撃隊からの戦力の抽出、さらには毛利秀元率いる毛利の大兵の来援を得てこれを押し返しつつあった。
 畿内でも、西軍本隊が伏見城将鳥井元忠の奮戦により宇喜多、鍋島、小早川らの諸隊が多大な損害を被ったものの、力戦に継ぐ力戦でこれを下し、石田三成の直率する部隊は美濃から尾張へと進撃、清洲城を攻略して三河国内をうかがっていた。
第三章 三兄弟の功名争い

 各地で西軍が活発に城攻めを行っていた頃、小山を発した東国の大軍は家康嫡男秀忠以下の徳川本隊が東海道を、福島、黒田ら豊臣恩顧諸将の軍勢が東山道を西へ西へとひた走っていた。その最前列を走る三河以来の徳川家旗本衆、本多忠勝、井伊直政、榊原康政がいちはやく着陣、刈谷城をすり潰した西軍先鋒隊と対峙した。
 続いて到着した徳川秀忠、結城秀康、松平忠吉の三兄弟は、真田昌幸の牽制で遅れている福島らの諸隊を待たずして反撃を開始する。一隊、また一隊と重ねて繰り出される徳川軍部隊は戦線の中央に布陣していた小西行長隊を完全に取り囲んだ。この包囲陣は島、大谷、長宗我部らの奮戦で破られたものの、島隊に甚大な損害を与えて三河国内から押し返すことに成功した。
第四章 関東震撼

 山形城を陥落寸前にまで追い込んでいた直江山城の元には連日のように関東出兵を促す三成からの使者が到着していた。直江兼継は本来、出羽から旧領越後を窺う算段を立て、そのために越後に残っていた遺臣に命じて一揆を扇動させていたが、諸国の情勢を吟味し、家康の江戸出立を待ってから景勝の裁可を仰ぎ、自ら先鋒となって上杉領を北から南へと横断、白川関を出た。かつて、上杉謙信に呼応して関東で激闘を繰り広げてきた佐竹軍も水戸城を進発した。
 上杉佐竹の連合軍は下野国内で合流し、唐沢山城、小山城と順調に徳川方の城を抜いていく。その前に広がるのは東軍主力が去った後の無人の平野だった。
第五章 陰の戦い

 上杉軍は順風満帆であったが、その南下によって奥羽の争乱が鎮まったわけではなく、面従腹背の伊達政宗の指嗾により、上杉家の扇動による一揆発生に怒り心頭に発していた堀軍による酒田領進撃が行われる。この攻撃には、密かに出羽に入っていた片倉小十郎隊が兵糧輸送などで支援を行っており(ルール上は連絡線の中継)、政宗の寝業師ぶりが遺憾なく発揮されていた。
 一方、西国ではそれ以上に驚愕の事態が発生していた。その震源は他ならぬ西軍総帥毛利輝元である。三成からの出陣要請に重い腰を上げた輝元は秀頼の側近と謀って淀殿を出し抜き、秀頼君を担ぎ出すことに成功したのであった。
第六章 庄内川の合戦

 関東諸城の陥落、秀頼の出陣と次々ともたらされる報告は家康の心胆を寒からしめたが、その視線は微動することなく三成の布陣する戦陣のほころびに向けられていた。着陣と同時に見抜いていたその布陣の弱点。家康の圧力に対して徐々に兵を引きつつ時間を稼ぐ算段であったか三成は部隊を広く散開させ過ぎていた。
 家康以下の徳川諸隊、黒田、福島らの諸将の隊が集結してくるのに対し、西方で三成の指揮下にあるのは宇喜多隊のみであった。西国一の精兵を指揮して宇喜多秀家は一陣、二陣と東軍の攻撃を支えるが、結果的にはそれは自軍の傷を広げる役にしか立たなかった。
 三成敗れるの報はすぐさま全国を駆け抜けた。その衝撃は秀頼出陣の報を上回り、西国の長宗我部、島津、立花、鍋島、毛利(勝信)らは直ちに兵をまとめて帰国の途に付いた。毛利輝元も一旦大坂に退いて諸国の毛利勢に退去を命じ、自らも兵をまとめて広島へ出立した。

 この結果、一時は越後へ避難していた前田利長は毛利勢のいなくなった北陸で再度攻勢を開始した。

 一方、九州を席巻しつつあった黒田如水は頭を抱えた。島津、立花といった精兵が九州へ戻ってくるというのだ。さらに毛利も九州を窺う位置にいる。「速すぎる!」如水の野望は潰えつつあった。
第七章 美濃決死陣

 石田を破ったとはいえ、関東での上杉、佐竹の活動は家康の予想範囲を超えたものであった。自ら先陣を買って出た佐竹義宣は一気に武蔵国を南下して江戸城を囲みつつあるという。家康は関東で全てが失われてしまう前に畿内へ前進し大坂城を接収する必要があった。
 同じ頃、直江山城からの密使を迎えて三成は苦虫を噛み潰していた。山城曰く、どのような犠牲を払ってでも家康の前進を食い止められよ。例え、世の非難を一身に集めることになろうとも、それが豊家に対するご奉公であると。
 三成は苦渋の決断の末、諸大名の部隊を細分して、美濃、伊勢国内に展開させた。西軍の大将たちは三成に対する怨嗟の声を上げながら一隊、また、一隊と徳川軍の勢いを殺ぐために叩き潰されていったという。
 家康はこの戦法に憤ったものの関東で直江山城が望んでいる時間を稼ぐには十分なことを知った。もはや全ては潰え去ったのだ。
終章 和議

 数日後、石田家と徳川家との間で使者が交換され、和議が成立した。
 だが、形の上では勝ったとはいえ、主要な大名のことごとくが面目を失った西方にとってもその前途は多難であった。
 ただ越後の旧領回復だけを望んでいた上杉家は望むと望まざるとに関わらず政治の表舞台に引きずり出されていくことになるが、それはまた別の話である。


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